すきなものとか

すきなもののはなしとか、話したいこととか

山姥切長義のはなし

というか山姥切長義くん(ゲーム刀剣乱舞)の、自分用の覚書です。

 

お名前であるところの銘は「本作長義天正十八年庚寅五月三日二九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持云々」、正しくは「本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住国広銘打天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也長尾新五郎平朝臣顕長所持」。その字数実に62文字。長い。これが体に刻まれているかと思うと滾るものがあります。長々としたその銘を刻まれたのは銘にもあるように天正18年(西暦1590年)の5月3日の事です。長さは2尺3寸5分(72.1cm)、反りは8分(2.4cm)。ちなみにゲーム刀剣乱舞では本体70.6cmの山姥切国広くんが172cmらしいです。山姥切長義くんはそれよりも身長が高いとみられていて、ツイッターで探した身長予想では173~4cm説と身長は同じ説の2つが見られました。

 

その来歴は大体1352年~1381年の間に始まり、その年頃に長義により作刀され、北条家に伝来します。元の元の主であるところの長尾顕長に下賜されたのは天正14年(1586年)の時です。

北条時代の事を山姥切国広くんの事も交えつつ。
長尾顕長の刀であった山姥切長義くんは、小田原での戦いにおいて北条氏の敗色が濃厚になってきた際、城内にいた国広に元は太刀以上であったものを磨上げさせられて、あの長々とした銘を切り付けられました。ちなみにそれが5月の事で、山姥切国広くんが打たれたのはその前の2月の事だったりする。そして小田原城の開城が6月14日なので、少なくとも四か月程は同じ主の元にいた事になりますね。あとどうもこの事から長尾顕長は山姥切長義くんを揮って最期を飾ろうとしたらしく、その辺りが実戦刀の所以だと思います。しかし北条氏が降伏したのでそんな機会は得られず、おそらくは他の誰かの手に渡ったのかな、と思っています。違うのかな。わからない。調べた資料の情報からだと読み取れない空白の百年くらいがあるんです……。ところで聚楽第任務ってこの辺の話だったらしいですね。あんスタに必死になりすぎた頃だったので全く手つかずのまま過ごしたのですが、やれば良かったと本気で後悔してます。ちょぎくんほしい。

ちなみに小田原城落城後、山姥切国広くんは石原甚五左衛門という人の手に渡ったらしいのですが、この時長義くんはどこに……?ここからが空白の百年です。

徳川家に伝来したのは延宝9年(1681年)の6月の事。152両1分、今の日本円での金額に計算すると11,420,000円で買い求められました。一千万の男。ヒュウ!

ちなみに徳美組の伝来はこんな感じ
1601年:物吉貞宗が家康の手元に
1611年:南泉一文字が家康の元に
1615年:鯰尾藤四郎が家康の御分物として伝来

その後は美術品暮らしです。
昭和14年(1939年)9月6日に重要美術品指定、昭和24年(1949年)2月18日に旧国宝指定、昭和25年(1950年)に文化財保護法施行により重要文化財指定。で、現在は徳川美術館にいるそうです。

※山姥切国広くんが重要文化財に指定されたのは昭和37年(1962年)の6月21日、現在は個人所蔵。

 

そして全くもって真偽のさだが見つからなかった逸話の話。

ステの女なので舞台刀剣乱舞の話をしますが「此の夜らの小田原」では人の世を騒がすあん馬を切ったとされ、それ故霊刀と呼ばれている、という認識が刀達にはあるようでした。ちなみにこの舞台で山姥を切ったのは山姥切国広くんで、舞台刀剣乱舞において山姥を明確に切ったのは山姥切国広くんだけなんですよね。わ~。
色々見て回ったのですがとりあえず伝わってるのは「むかし信濃国(信州)戸隠山中で山姥を退治した」、というもの。
話題のどっちが山姥切ったの話ですが、これはつるぎの屋というサイト(最後にURL貼ります)が詳しく載せてくれていました。ざっくりと、山姥を切った逸話は山姥切長義と山姥切国広の双方にあり、本来どちらの呼称であるかは定かでは無いし、折紙が付帯していないこと、また刀剣台帳が関東大震災で焼失してしまったので、尾張徳川家の記録には山姥を切った記録はありませんという感じ。
つるぎの屋ではもう少し、本科である山姥切長義を山姥切と呼んでいるから、写しである山姥切国広を山姥切国広と呼ぶべきものと解釈していいのでは、というような事も記載されていました。つまりどっちが切ったのかはわかんないよ!そんなの定かじゃないよ!という。

ちなみにW山姥切、これはフォロワーさん(最後にアカウント載せます、参考文献です)から聞いた事なのですが、ゲーム刀剣乱舞においては山姥を切った逸話は自分と本科の双方にあり、そのどちらも信憑性が低い事に気付き、名前に縛られる事なく審神者に尽くす事を修行で決意するそうなんですよね。さらっと極バレなんですが私程不真面目な審神者じゃなかったらまあそろそろ山姥切国広くんはみなさん極にしてらっしゃいますよね……ごめんねすぐにレベル上げるからね……。

 

W山姥切の話もう少し。これもつるぎの屋に引用されているのですが、「刀剣談」(高瀬羽皐:著 明治43年刊)には山姥切長義について「然れども真に長義の傑作と称すべきは尾州の長義と、大久保の六ツ股長義であらふと言はれた事がある」とありました。尾州とは尾張徳川家の事で、この事から、山姥切長義は長義の傑作である事が伺えます。写しである山姥切国広は国広第一の傑作であり、本歌と写しというだけでなく、この二振りは似通った部分があるという事なんじゃなかろうかと盛り上がってました。
それから例のくそくそ。山姥切国広くんは審神者のための刀だという事で自分を確立させましたが、対する山姥切長義くんは山姥切という名前に拘っていて、「山姥切の名で顔を売ってるんだろ」という言葉を投げつける訳ですね。それに対して山姥切国広くんは「名前より大事なものがある」と返す事ができてしまって、論点がずれてるので二振りの会話にはずれが生じてしまってる、らしいです、これもフォロワーからの情報です。いつもありがとうございます。そのフォロワー曰く山姥切長義くんが気に入らないあ世間の認識であり山姥切国広くんの存在自体では無いらしいです。なにそれすごい。
そういうクソデカ感情大好き。

あと頑張って調べたので刀工の長義さんの話と刀の山姥切長義くんの話。

長義さんはちょうぎともながよしとも読み、備前長船派の刀工の一人です。そもそも長船派というのは備前物のうちの鎌倉後期以降に興った刀工集団を差します。備前物っていうのは備前国の刀工によって作られた刀剣の事です。地方。岡山県の東南部あたりらしい。ちょっとピンと来ないです(岡山県民の方いたらすみません)。

で、正宗十哲、というものの一人でもあります。正宗十哲というのは相州伝を完成させた岡崎五郎入道正宗という人の高弟たちのことで、その人はゲーム刀剣乱舞としては日向正宗くんを鍛刀した方ですね。

さて長義さんの作風は、長船にあって長船に非ずというような感じだったらしく、本流あ異なり自由奔放な作風が特色で、異色の鍛冶として知られ、備前物の中で最も備前らしくないとまで言われていました。また代表作(?)は「八文字長義」「六股長義」「山姥切長義」に代表されるすさまじい切れ味のものが伝わっています。どうやら流行を取り入れた作風でもあったらしいです。親譲りの流行に敏感なおしゃれさんだといいな!これは願望です。

さてさてここからが知りたかったけどややこしかった長船の流れです。とりあえず長義さんの所まで。

長船派の祖は近忠・光忠親子。
光忠さんが作ったのが我らが祖・燭台切光忠です。みっちゃーん!私はステのミュージカルが大好き。
で、ただし近忠は作品が現存しておらず、光忠も年紀が入った作品が存在しないので、

光忠の子である長光さんが作ったものが確認できる最古のものです。
この長光さんが作ったのが大般若長光・小豆長光の二振り。

長光の子、あるいは弟子と推定される景光・兼光親子、近景・真長はいずれも名匠として知られているそうです。
実装されているのは景光さんの古竜景光・謙信景光

④ー1その後南北朝時代には兼光系の倫光・政光・基光らの正系
④-2相州物の影響を受けた長義系の長重・長義・兼長
④-3両系統とは別系の元重系の元重・重真、山城大宮から移った大宮系の盛景・盛重などが活躍したとされる。らしい。も~わかんない。
そして④-2の長義さんが愛する山姥切長義くんを打ってくださった方です。感謝。

 

全体を通して何が何だかよくわかってないのですが、それでも知らなかった頃よりはマシになったかなと思うので、これから山姥切長義くんを知りたいと思う方と共有できたらなと思います。そして誰か山姥切長義くんの事を教えてください。切実に。よろしくお願いします。

 

 

※参考文献

「名刀幻想事典」https://meitou.info/
「つるぎの屋」 http://www.tsuruginoya.com/
「刀剣ブログ」https://kougetsudo.info/blog/

Wikipedia 長船派https://ja.m.wikipedia.org/wiki/長船派
ゆーとさん @yuyuto_1

wiki以外はトップページです。あと辞書とか色々。ありがとうございました!